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2020年7月20日月曜日

we will meet again

ロックダウンは解除されたけどなんだかいろいろと自由放免とはならない世の中。

zoomやらスカイプやらで、顔をみて話ができたり
(個人的にはとても苦手です)
オンライン飲み会とか
(一回しかやったことがない)
するのだけど、
人はこれで「会った」ことにはならない、
会ったと認識するには、
嗅覚とか味覚とかの感覚が必要なのだという記事を読んだ。

なるほどその通り!

オンラインでつながってもそれは「会った」ことにはならないと。
で、エリザベス女王さまはwe will meet again とおっしゃったそう。

今日、上りのバスにどのくらい乗ってないかな?
と考えてみたら半年ものっていないことに気が付いて驚いた。

まず、用事や約束がない。
下りのバスや電車にのって仕事場にいって
帰ってくるということはあるのだけど)

これでなんとかなっちゃっているといえば、
そうなのだから結構なことなのだけど。

これはいつまで続くのかしら。

2015年4月2日木曜日

【ことば】生を楽しむ

『人間を別にすれば、あらゆる動物達は、生きていることの主たる仕事が、生を楽しむことだということを知っている。』(S・バトラー)

***

という、今朝、自動配信される「おことば」。

じゃあ、人間はいったいなにしてるのさ!?

2014年2月18日火曜日

雪の日々

最初はいいんだ。降り始めの時は。さあ、食べ物かって家でのんびりしましょうなんていっちゃって。
でも、トンイも全部みちゃったし、そろそろ退屈してくるころ、恐ろしいほど雪が積もって、やることは雪かきしかない。

体つかってるから寒くはないけど、腰が痛い。痛くなっては家に入り、治ったら外にでてを繰り返す。

やることが山積み。ほんとは本気だせばすぐ終わることなのに、本気でない。

人は2種類のタイプにわけられる。

雪かきがすきなひとと
雪かきがきらいなひと。

なんて思いながらせっせと雪をかく。
私はどっちかというと好きなほうかも。

ご飯食べた後は、運動だとかなんとかいってしばらくやってまた腰がいたくなって戻ってくる。

雪かきは全身運動でけっこう疲れる。本人が思う以上に疲労するようで、ぐっすりよく眠れる。





2014年1月20日月曜日

持つ者と持たざる者

持っていないっていうのはいいことなんだなーって感じたエピソード。 


隣のおうちにいって坊主めくりして遊んだ。

これなら3歳児も参加して遊べる。 

で、私、結構カード集まってきて、坊主ひくの怖くなった。このまま ゴールしたい!と。 

ところが、坊主ひいちゃった。 
でもなーにもなくなったら、カードひくのちっともこわくないの。くるならこい や、って感じで。

ああ、貧乏って楽ちんだ(笑)って思った。

人は持っているから不安になるんだ,、を体感した出来事でした。

母にこの話いったら「あんた、貧乏でも大丈夫だもんね。昔から」って・・・え、そうなの? といいますか。逆のシチュエーションを体験したことがないだけなんですけど・・・。

語学・・・フランス語のこと

パリって素敵。

で、大学の第二外国語でフランス語でもとればいいのに、なぜかドイツ語をとってしまい、
どうしてもこれをドイツ語で見たり聞いたりしなくてはいけないという気持ちも薄ければ
ドイツのあそこに行きたいと思う気持ちも薄く、さっぱりそんな生徒は上達しない。

なんでも目標というか、こうしたいと強く願う気持ちが大事なんだと思う。

で、やっぱりフランスがいいじゃないか、と(単なる思い込みですが)思い、ラジオやらテレビやらでフランス語会話をやってみたり、アテネフランセにいったりした。

ここではいろんな人がいた。早朝のクラスにもでたけど、これは眠くてあんまり話も聞こえなかったけど、出勤前のサラリーマンやOLさんがいた。お仕事で必要なのだろう。

夏休みのクラスにもでた。発音のクラスで同じだったテキスタイルのデザイナーさんもいた。(この発音クラス、当時、歯の矯正をしていた私には非常にきびしいクラスだった。)なぜか、私この人に気に入らないって思われていたみたいで、あいさつしても無視されたりして、小学校時代のいじめについて思い出した。

最初はボタンをくれたりして、(ほしいなんていってないのに)なんか不思議な人だと思ったけど、ある日突然態度豹変で、口もきかず、カフェであってもスルーされるようになった。さっぱりどうしてだかわからない。人は突然何かのきっかけでこういうことが起きるものなのだ。

それはまあ、いいとして、会社員だったとき、歩いてすぐのところにビストロみたいなところがあって、ときどき食事をした。フランスの定食屋さん。そこの店長がプライベートレッスンをしていて、(すぐとなりのビルの一室。。。たぶん自宅として借りていたんだと思うけど・・・)そこで習っていた。外国人にはいいお小遣い稼ぎだと思う。でも、その先生、文法しかやらないので、退屈で眠くて眠くて仕方なくて、たった3、4人のクラスだっていうのに、我慢しきれずに、船こぐ私・・・

これまた、いつはじめて、いつやめたのか(やめますって宣言したつもりもないし)さっぱり覚えてないけどいつのまにかいかなくなってしまった。このお店はいまはもうないので、先生、フランスに帰っちゃったかな? お店でお給仕していて、日本語はペッラペッラ。自宅で教えているのにも関わらず、生活臭がほとんどなくて、結婚してるんだかしていないんだかすらわからなかった。

(私よりはたぶん10くらい上だと思う。おとこの先生。tu での活用は教えてくれない。君にそんな親しいフランス人ができないだろうからvous で十分といわれた。たしかにそうかもしれないけど・・・)

なんと!

美容師さんに、何か夢でもみてたんじゃないかといわれて、気になって気になってKちゃんにメールして、私たちが英会話ならってた先生の名前なんだったっけ? と聞いたらすぐお返事があり
(パキスタン人だった)検索してみたら・・・夢でなかったことがわかった。

アランカリム先生。まだ稲毛で英会話学校やってた!!!

http://www.geocities.jp/liaispleasant/index.html

じーん。目頭が熱くなる思い・・・

習い事

こどもの習い事にはかなり考えさせられる。いま3歳なので、さして自分からあれがしたいこれがしたいということもないのだけど、耳のことを考えるといま英会話をやるほうがよいとか、水泳にならわすと体が丈夫になるとかピアノをはじめるとよいとかいろいろなことを聞く。

で、いまは柔軟体操の意味でバレエのストレッチのクラスに参加させていただいているが、これがまあ、やる気があるんだかないんだか? で、小学生のなかでいちばん小さい自分、思うようにいろいろなことができなくて気おくれするのか? わたしがそこにいるのがいけないのか? さっぱりちゃんとできたためしがない。

本人が嫌いで仕方ないというなら、無理にはやらせないんだけど、帰りに「楽しかったね」というので、そうか、楽しかったのか・・・とまた翌週いってしまう。もしかして、私が「どうだった? 楽しかった?」と尋ねるから誘導尋問されたコドモが「タノシカッタ」と機械的に答えているだけかもしれないと思うといろいろ考えてしまう・・・

それはそうと。

私自身の習い事。

小学校のときにピアノやお習字かきかた、英会話、そろばん、水泳様々なことを習わせてもらった。何一つ結果を残していないけど、夫が楽譜をみてドがどこかわからないのをみて、それが当然わかっていると(世の中の人が)思っていた私は衝撃をうけた。そうか。こういうことなのか。やらないとできない。当然だけど。

そのかわりに彼がふつうにできて、やってきたことで私ができないことが山ほどある。世の中はバランスで成り立ってる。いつもそう思う。

高校生のときに英会話をふたたび習いたくて、どこをどうしてその教室を知ったのか覚えてないけど、(たぶん友人Kちゃんがみつけてきたのだと思う)英会話学校に行きはじめた。カナダで生活をしていたネパール人だったと思う。

このネパール人・・・熱心な矢追純一ファンで、不思議ネタが大好き。
だ、もんで、この日本語を英語にせよ、って宇宙人の話ばっかり・・・

私がここで身に着けた英語といえば「running nose」くらいなもので(鼻が出ます)、あとは宇宙がどうたらこうたらと、不思議話ばかりで、あまり日常生活に関係ないから忘れてしまった。

で、この話を髪をきってもらいながら美容師さんにしたら、それって本当にいた人なんでえすか? そのネパール人? って。え、これ、私の想像の人物なの!? いま町であっても分かるくらい鮮明に覚えてるのに。(あ、でも名前わすれたからKちゃんに聞いてみようと思う) 

Kちゃんと私、ふたりして何か夢でもみていたのだろうか。

2014年1月18日土曜日

勇気って? ABOUT courage


小学生のころ、道徳の時間に先生が勇気って何だと思う? と聞いた。
私は挙手しなかった。わからなかったから。

ある男の子は「ビルからとびおりること」

ある女の子は「いじめにたいしていけないということ」

など、解答した。次々いろいろな「勇気」がでた。

そのとき、先生がどう畳んだのか覚えていなかったけど、ビルからとびおりることが「勇気」ではないということはいっていたと思う。

いま読んでいる本「夜間飛行」でサン=テグジュベリがアンドレジッドに送ったお手紙が紹介されていて、ここに勇気とは何か、ぴたっとくることが書いてあったのでメモしておきたい。

勇気というやつは、たいして立派な感情からできてはおりません。
憤怒(いかり)が少々、虚栄心が少々、強情がたっぷり、、それにありふれたスポーツ的楽しさが加わったというだけのしろものです。 
肉体的な力の激昂はたいしたものですが、これはあいにく何の役にも立ちません。いずれかといえば、むしろ愉快です。これが夜の出来事ですと、非常にばかなことをやらかしたという気持ちが一つ加わります。今後僕は、単に勇気があるというだけの男なら絶対に尊敬はしないつもりです。

(サン=テグジュベリ)

そして、アンドレジッドはこの引用文の題言として、キントンの書から引いた格言を置いた。

恋愛と同じく、人は自分が勇敢だという事実を隠したがる。

またはもっと適切に

勇敢な人間は、金持ちが慈善を隠すのと同じく、その行為を隠す。彼らはその行為に変装させるか、でなければそれを詫びたい気持ちになる。

小学生のころ、ある科目で、点数が思ったよりよかったので、喜んでいたら、隣の席だったHちゃんが「能あるタカはツメを隠す」とつぶやいた。

すごく恥ずかしい気持ちがした。たまたまよかった点数よりもHちゃんみたいにコツコツ勉強して、(もちろん私よりいつも成績がよかった)ワーワー喜ばないことだと思った。本当に間抜けな自分。

そのことを、ふと思い出した一文でした。

そう。勇気って、ばかげた感情なんだと思う。その場の雰囲気でおされてしまう。でも真の勇気というのは、表立ってでてくるものではないんだと。