小学生のころ、道徳の時間に先生が勇気って何だと思う? と聞いた。
私は挙手しなかった。わからなかったから。
ある男の子は「ビルからとびおりること」
ある女の子は「いじめにたいしていけないということ」
など、解答した。次々いろいろな「勇気」がでた。
そのとき、先生がどう畳んだのか覚えていなかったけど、ビルからとびおりることが「勇気」ではないということはいっていたと思う。
いま読んでいる本「夜間飛行」でサン=テグジュベリがアンドレジッドに送ったお手紙が紹介されていて、ここに勇気とは何か、ぴたっとくることが書いてあったのでメモしておきたい。
勇気というやつは、たいして立派な感情からできてはおりません。
憤怒(いかり)が少々、虚栄心が少々、強情がたっぷり、、それにありふれたスポーツ的楽しさが加わったというだけのしろものです。
肉体的な力の激昂はたいしたものですが、これはあいにく何の役にも立ちません。いずれかといえば、むしろ愉快です。これが夜の出来事ですと、非常にばかなことをやらかしたという気持ちが一つ加わります。今後僕は、単に勇気があるというだけの男なら絶対に尊敬はしないつもりです。
(サン=テグジュベリ)
そして、アンドレジッドはこの引用文の題言として、キントンの書から引いた格言を置いた。
恋愛と同じく、人は自分が勇敢だという事実を隠したがる。
またはもっと適切に
勇敢な人間は、金持ちが慈善を隠すのと同じく、その行為を隠す。彼らはその行為に変装させるか、でなければそれを詫びたい気持ちになる。
小学生のころ、ある科目で、点数が思ったよりよかったので、喜んでいたら、隣の席だったHちゃんが「能あるタカはツメを隠す」とつぶやいた。
すごく恥ずかしい気持ちがした。たまたまよかった点数よりもHちゃんみたいにコツコツ勉強して、(もちろん私よりいつも成績がよかった)ワーワー喜ばないことだと思った。本当に間抜けな自分。
そのことを、ふと思い出した一文でした。
そう。勇気って、ばかげた感情なんだと思う。その場の雰囲気でおされてしまう。でも真の勇気というのは、表立ってでてくるものではないんだと。
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